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【2024.07.22-07.24】ドルトムント工科大学にて平和教育者アーカイブを活用した平和教育実践に関する講義が行われました。

公開日:2024年10月09日 カテゴリー:お知らせ

 

2024年7月22日から24日にかけて、宮本勇一氏(岡山大学・講師)がドルトムント工科大学にて客員教員(Gambrinus Fellowshipの枠組み)として同大学の大学院生23名(現職教員17,教育科学研究科6名)に講義を行いました。その際、EVRIにて作成した平和教育者アーカイブが活用されました。

1.活動

日時:2024年7月22日~24日 *平和教育実践に関しては23日に実施
場所:ドルトムント工科大学(Technische Universität Dortmund)
参加者:23名の大学院生(現職教員17,教育科学研究科6名)
活動内容
Global Citizenship Education als Überwindung von Grenzen: Frieden, Menschenrecht, und Nachhaltige Entwicklung
境界線を乗り越えることとしての世界市民教育:平和・人権・持続可能な開発のための教育に向けて(集中講義)

2.講義概要

2-1.授業全体の概要

世界市民思想、世界市民教育思想は、社会に引かれた境界線を「越える」ことを目指してきた。しかしながら、現実に引かれた境界線が、特別な権利を保証し、アイデンティティを確立し、他者との区別を可能にし時に対立を呼び起こしつつも時に敬意ある関係を結ぶことを可能にするといった、境界線の社会的・政治的機能を世界市民思想は見過ごして、普遍的人間性を打ち立てることを目指してきた。本講義では、むしろその逆を試みる。というのは、社会の中の境界線を止揚し越えていくのではなく、この境界線に立ち止まり、この境界線がどのようにできたのか、境界線がいかに自分自身の考え方や見方を作り上げているのかを見つめ理解する、そしてそれを通して初めてこの境界線をどのように書き換えるかについて考える視界が開かれると考えるからである。本講義では、平和教育、人権教育、持続可能な開発のための教育の三つを事例に、特に前者二つについては具体的な実践事例を検討しながら、境界線を越えるのではなく、境界線の上に立ち、境界線それ自体を見つめ、別様に引き直す教育実践の可能性を模索する。

人権教育(初日)では、科学的診断によって人々に別々の権利が分配されていった歴史的事例をもとに、境界線による権利分配の公正について考え、子どもたち自身の生活の中の境界線への思考を促そうとする実践を検討した。平和教育(二日目)では、三つの世代からなる広島の平和教育者たちへのインタビューから、当事者と非当事者の関係における境界線の社会的構築を検討した。被爆体験のある教師が自らを被爆者教師として自己規定して行く過程、非被爆者が第二世として自らのアイデンティティを「獲得」・「形成」し活動の場を作り上げていく過程、地理的歴史的に関係を持たない若い教師が広島の平和教育と関わる中で被爆者-非被爆者という境界線ではない別様の境界線へと書き換えていった過程を分析した。当事者性という境界線の彼岸と此岸で教師たちが自らの教育実践を作っていった過程を捉えた。日米での教科書の共同作成に関しては、境界線を「越える」教育実践について議論を行い、概念型カリキュラムでは、子どもたちが6つの概念で平和を捉え直していたことを評価した。持続可能な開発のための教育(三日目)では、日本の公民教科書における地球温暖化の記述の分析から、環境問題の帰責の境界画定の力学について検討した。本来的に天体活動、産業、国家や市民の活動など複雑な要因から生まれた、何か一つに帰責し得ない環境問題が、教科書の中では、例えば先進国や途上国の責任に焦点化され、時には生徒の主体的貢献へと責任委譲されていることを検討し、教育が境界線を引き直し、学習者にその線を背負いこませようとしていることを検討した。

2-2.平和教育パートについて

授業では、平和教育者へのインタビューのうち、File 1-3を視聴し分析を行った。授業冒頭では、丸山恭司、および川口隆行による、インタビューの解説動画を基に、広島における平和教育の背景的情報への基本的理解をおさえた。

インタビュー動画については、学生に一つの動画を集中的に読み、以下の課題に応えるように指示した。授業内で成果を共有し、三つの動画を比較した。その後、広島県立広島叡智学園中学校・高等学校における平和教育実践のプロジェクトについて、プロジェクトA・Bに関する動画を視聴し、境界線を超える・境界線について学ぶという観点から議論を行った。

課題
経験:三人の教育者は原子爆弾についてどのように語りましたか
実践:三人の教育者は平和教育プロジェクトとして何をしましたか。
態度:三人の教育者は平和教育をどのように理解していますか。

 

3. 広島における平和教育実践に関するコメント・感想(一部抜粋)

ALSさん

インタビューの比較から、3人の教師全員が平和教育を学校の授業に組み込むことを支持していることが明らかになりました。平和教育は、生徒たちが社会の中で平和な共存に貢献する自立した市民へと成長することを目指しています。
森下先生は特に広島で起こった出来事について生徒に詳細に教えることに重点を置いていますが、野元先生は戦争や平和といったテーマ全般に取り組む、より自由な形の平和教育を重視しています。
集中講義では、記憶の伝達が境界線の扱いに関連していることも示されました。ここで、記憶文化と記憶の継承において特に重要な異なる構造が区別されています。

  • 社会的コミュニケーションのインフラ構造:同じ経験を共有した人々との交流 → 共通の意味形成:原子爆弾の投下がネガティブな出来事として認識される。
  • 時間的構造:当事者の死によって記憶が消えていく。若い世代にとっては、実際に出来事を経験していないため、その記憶を共有することが難しくなる。
  • 身体的構造:出来事に起因する傷や病気/原子爆弾攻撃に関する言語化し得ない体験に対するオノマトペ(ピカドン等)の使用。

結論として、このセッションで確認できたことは、被爆者と被爆者ではない人々の間に境界が存在しているということです。被爆者とのコミュニケーションによって、その記憶を共有し伝えることは可能ですが、それでも境界は残ります。
私たちの集中講義のテーマである「コスモポリタニズム(世界市民主義)」に関連して、野元先生は、自分や生徒たちの生活にどのような境界が存在し、その境界をどのように扱い、テーマとして取り上げることができるかを考えることができるかもしれません。

ALさん

森下先生の授業における原爆の影響に関する境界設定は興味深かったです。第一世代にとって、平和教育は原爆教育を意味します。次の世代にとっては、平和教育は正常性と異常性などの他のテーマについて反省することを意味します。感覚的な体験は、記憶を熟成させ、再構築するための効果的な方法です。影響を受けた人々とそうでない人々の間には境界が存在します。
共通の記憶文化は境界を扱います。その際、時間的構造と身体的構造が重要です(自己の傷や原爆の影響としてのケロイドなど)。多賀さんの活動は、コスモポリタニズム、つまり境界を越えることとして考えられるかもしれません。彼は被爆者の境界を越えようとしたからです。

(HiGA実践について)私は、生徒たちがトルーマンを直接的に責めるのではなく、中立的な形で記述することを選んだことが良いと思います。これにより、敵対的なイメージが作られ、それがさらにエスカレーションの連鎖につながるのを防ぐことができます。アメリカの学校との協力は非常に有意義だと思います。アメリカと日本は原子爆弾に対して異なる視点を持っており、記憶は社会的に構築されたものです。記憶文化における共通点を見出し、違いをただ指摘することが有意義です。
私は、将来の学年のための教科書を作成する際には、原爆投下の全体的な歴史的文脈を記述することが重要だと考えています。これにより、生徒たちは事実に対して客観的な視点を持つことができるようになるでしょう。

 

 

(文責:宮本勇一

 

本講義にて活用された平和教育者アーカイブについては、以下のバナーをクリックするとご覧いただけます。